【コラム記事 vol.55】「自分がいなくなったら、何が残るんだろう」と考えた話

コラム記事
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※この記事では『さよならの朝に約束の花をかざろう』『世界から猫が消えたなら』の物語の核心に触れる内容を含みます。

皆さんには、「人生で一番好きな作品は?」と聞かれたときに、真っ先に思い浮かぶ作品はありますか?
映画でも、アニメでも、小説でも、漫画でも。
「面白かった作品」なら、自分にもたくさんあります。
何度も見返した作品もありますし、映像が素晴らしかった作品、物語に夢中になった作品、好きなキャラクターがいる作品もたくさんあります。

でも、「好き」という言葉だけでは、なんとなく説明しきれない作品があります。
自分にとって、それがこの2作品です。

『さよならの朝に約束の花をかざろう』
そして、
『世界から猫が消えたなら』

もし「どちらのほうが好き?」と聞かれても、自分にはたぶん選べません。
人生の中でどちらが一番好きか。
そう聞かれても答えを出せないくらい、この2作品は自分の中で特別な存在です。
ただ、不思議なことが一つありました。

「じゃあ、なぜそこまで好きなの?」

そう聞かれると、自分でもうまく答えられなかったんです。
もちろん、どちらも素晴らしい作品です。
物語も好きですし、登場人物も好きです。
何度見ても心を動かされます。

でも、それだけではない。
もっと自分の心の深いところに、ずっと何かが引っかかっている。
見終わったあとも、何年経っても、ふとした瞬間に思い出す。
まるで一度刺さったものが、そのまま抜けずに残っているような感覚があります。

なぜ、この2作品だけがこんなにも自分の中に残り続けているんだろう。
改めて考えてみました。
そして今回、ようやくその理由が少しだけ分かったような気がしました。


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共通しているのは「命」と「家族」

最初に思いついた共通点は、「命」と「家族」でした。
『さよならの朝に約束の花をかざろう』は、長い時を生きるイオルフの少女・マキアと、人間の少年・エリアルの物語です。
血のつながりのない二人が出会い、マキアはエリアルを育てることになります。
最初から完璧な母親だったわけではありません。
戸惑いながら、悩みながら、失敗しながら。
それでも二人は長い時間を一緒に過ごし、少しずつ「家族」になっていきます。
けれど、二人には決定的な違いがあります。

それは、流れている時間が違うことです。
マキアは、人間よりもはるかに長い時間を生きる存在。
エリアルは、普通の人間として生まれ、成長し、年を重ねていきます。
つまり、マキアはエリアルの人生を見届ける側になります。
子どもだったエリアルが成長し、大人になり、やがて自分よりも年老いていく。
普通なら、子どもが親の老いを見届けることのほうが多いはずです。

でも、この作品ではそれが逆転しています。
愛する人と同じ時間を生きられない。
どれだけ大切に思っていても、いつか必ず別れが来る。
しかも、自分だけがその先の時間を生き続けなければならない。
この作品には、そんな残酷さがあります。

一方、『世界から猫が消えたなら』は、まったく違う方向から「命」を描きます。
主人公は、自分の命が残りわずかであることを知ります。
そんな彼の前に現れたのは、自分と同じ姿をした「悪魔」。
悪魔は、世界から何か一つを消す代わりに、主人公の命を一日延ばすという取引を持ちかけます。

電話。
映画。
時計。
そして、猫。

世界から何かを消せば、自分はもう一日生きることができる。
一見すると、「何を犠牲にしてでも生きたいのか」という話に見えるかもしれません。
でも、物語が進むにつれて見えてくるのは、それぞれの「もの」に結びついていた人との記憶です。
電話があったから、誰かとつながった。
映画があったから、誰かと出会った。
時計には、家族との時間が刻まれていた。
猫には、母との思い出があった。

世界から何かを消そうとするたびに、主人公は気づいていきます。
自分の人生は、自分一人だけで作られていたわけではなかったのだと。

誰かと出会ったこと。
誰かと話したこと。
誰かと笑ったこと。
誰かを好きになったこと。
家族と過ごしたこと。

そうした一つ一つが積み重なって、「自分の人生」になっていた。
そう考えると、この2作品には確かに共通して「命」と「家族」というテーマがあります。
でも、それだけではありませんでした。


同じテーマなのに、実は正反対の物語だった

改めて2作品を並べてみて、初めて気づいたことがあります。
この2作品は、とてもよく似ているのに、驚くほど対照的なんです。
『さよならの朝に約束の花をかざろう』のマキアには、時間がありすぎます。
自分は長く生きる。
でも、自分が愛した人たちは、自分より先に年を取り、自分より先にいなくなっていく。
つまり、「残される側」の物語です。
対して『世界から猫が消えたなら』の主人公には、時間がありません。
世界はこれからも続いていく。
家族も、友人も、かつて愛した人も、この世界に残っていく。
でも、自分の時間だけが終わろうとしている。
こちらは、「去っていく側」の物語です。
一方は、長すぎる命。
もう一方は、短すぎる命。
一方は、大切な人を見送る。
もう一方は、自分自身がいなくなる。
正反対なんですよね。
なのに、どちらも自分の心に同じくらい深く刺さっている。
なぜなんだろう。
そこを考えていったとき、自分の中にずっとあった、ある問いに気づきました。


「自分は何のために生きているんだろう」

たぶん、自分がこの2作品に惹かれている本当の理由は、「家族」というテーマだけではなかったんだと思います。
もっと根本的なところにありました。
「自分は何のために生きているんだろう」
「今やっていることに意味はあるのか」
「自分がいなくなったら何が残るんだろう」
「大切な人がいなくなったら、自分に何が残るんだろう」

こういう問いです。
普段から毎日のように考えているわけではありません。
朝起きて、「今日も人生の意味について考えよう」なんて生活をしているわけでもありません(笑)。
仕事をして。
好きなことをして。
写真を撮って。
記事を書いて。
アニメを見たり、ゲームをしたり。
友人と話したり。
そんな普通の毎日を過ごしています。

でも、ふとした瞬間に考えることがあります。
自分が今やっていることには、本当に意味があるんだろうか。
自分が何かをして、それは何になるんだろう。
そして、いつか自分がいなくなったとき。
何が残るんだろう。

たぶん、この問いに明確な答えを持っている人は、そんなに多くないと思います。
自分にも分かりません。

でも、『さよならの朝に約束の花をかざろう』と『世界から猫が消えたなら』は、正反対の方向から、この問いを自分に投げかけてくる作品だったのかもしれません。


大切な人がいなくなったら、何が残るのか

『さよならの朝に約束の花をかざろう』が突きつけてくるのは、
「大切な人がいなくなったあと、自分には何が残るのか」
という問いなのだと思います。

人は、いつかいなくなります。
それは避けることができません。
家族も。
友人も。
大切な人も。
そして自分自身も。

どれだけ「ずっと一緒にいたい」と願っても、永遠に同じ時間を共有することはできません。
では、別れが来るのなら、出会わないほうがいいのでしょうか。
失うと悲しいのなら、最初から大切にしないほうがいいのでしょうか。
もちろん、そんなことはない。
マキアはエリアルと出会います。
育て、悩み、すれ違い、離れます。

それでも、二人が一緒に過ごした時間は消えません。
最後に別れがあるからといって、それまでの時間が無意味になるわけではない。
むしろ、終わりがあるからこそ、その時間がかけがえのないものになる。
人がいなくなっても、その人と過ごした時間までなくなるわけではありません。
その人と出会ったことで変わった自分。
その人からもらった言葉。
一緒に見た景色。
一緒に笑った記憶。
そういうものは、自分の中に残り続けます。

つまり、
「大切な人がいなくなったら、自分に何が残るんだろう」
という問いに対して、
「その人と出会ったことで作られた、今の自分が残る」
という答えがあるのかもしれません。


自分がいなくなったら、何が残るのか

一方で、『世界から猫が消えたなら』が向き合っているのは、その逆です。

「自分がいなくなったら、何が残るんだろう」
という問いです。
自分がいなくなっても、世界は続きます。
明日も朝が来ます。
電車は走ります。
誰かは仕事に行きます。
誰かは笑います。
新しい映画が公開されます。
新しい作品が生まれます。
自分がいなくなっても、世界そのものが止まるわけではありません。
そう考えると、少し怖くなることがあります。
では、自分が生きていたことには、何の意味があったんだろう。
何十年か生きて。
仕事をして。
好きなことをして。
誰かと出会って。
そして、いなくなる。
それだけなのだろうか。

でも、この作品を見ていると、人生の意味は「世界に何を残したか」だけで測るものではないのかもしれないと思わされます。
歴史に名前を残さなくてもいい。
大きなことを成し遂げなくてもいい。
世界を変えなくてもいい。
誰かと電話したこと。
一緒に映画を見たこと。
猫をかわいがったこと。
家族と過ごしたこと。
誰かを好きになったこと。
誰かに大切にされたこと。
そういう何でもない時間の積み重ねが、その人の人生だった。
そして、自分がいなくなったあとも、
「あの人とこんなことをしたな」
「あの人はこんなことを言っていたな」
「あの人と一緒にいた時間、楽しかったな」
そうやって誰かの中に、自分との時間が少しだけ残る。
もしかすると、それだけでも十分なのかもしれません。


人は、誰かが残していったものでできている

ここまで考えて、もう一つ気づいたことがあります。
人は、自分一人で「自分」になったわけではありません。

これまで出会ってきた人。
家族。
友人。
先生。
仕事で出会った人。
趣味を通じて出会った人。
たった一度しか会わなかった人。
もう会わなくなった人。

そういう人たちとの時間が、少しずつ自分の中に残っています。
誰かに言われた一言で、考え方が変わったことがあるかもしれない。
誰かに勧められた作品が、一生好きな作品になるかもしれない。
誰かと出会ったことがきっかけで、新しい趣味を始めるかもしれない。
たった一枚の写真が、その人にとって一生忘れられない思い出になることだってあるかもしれない。
そう考えると、人は誰かの中に何かを残しながら生きていて、
同時に、自分自身も、これまで出会った人たちが残していったものの積み重ねでできているのかもしれません。
自分がいなくなったあと、誰かの中に自分が残る。
大切な人がいなくなったあと、その人が自分の中に残る。
この二つは、実は同じことなんですよね。

だからこそ、『さよならの朝に約束の花をかざろう』と『世界から猫が消えたなら』は、正反対の物語なのに、自分の中では同じ場所に刺さっているのかもしれません。


最後にたどり着く、「生まれてきてくれてありがとう」

そして、自分がこの2作品を特別だと思う大きな理由が、もう一つあります。

どちらの作品も、物語の最後に「生まれてきてくれてありがとう」という想いにたどり着くことです。
これは、とてもすごい言葉だと思います。
「何を成し遂げたのか」ではない。
「どれだけ成功したのか」でもない。
「どれだけ多くの人に知られたのか」でもない。

ただ、
あなたが生まれてきたこと。
あなたがこの世界にいたこと。
あなたと出会えたこと。
一緒に時間を過ごせたこと。
その存在そのものに対して、「ありがとう」と言う。

もし、
「自分は何のために生きているんだろう」
という問いに答えがあるとするなら。
もしかすると、「何かのため」でなくてもいいのかもしれません。
何か大きな使命がなくてもいい。
何かを成し遂げなければ、生きた意味がないわけでもない。

誰かと出会った。
一緒に笑った。
一緒に過ごした。
誰かの記憶の中に、自分との時間が少し残った。
それだけでも、その人生には意味があったのかもしれない。
「生まれてきてくれてありがとう」
という言葉は、
「あなたが存在したことそのものに意味があった」
という、人生そのものへの肯定なのではないでしょうか。
だから、自分はこの言葉に弱いのかもしれません。

そして、だからこそ、この2作品が何年経っても心から抜けないのかもしれません。


……で、これがなぜコスプレの話になるの?

ここまで読んで、
「いや、今回コスプレ全然関係ないじゃん」
と思った方。

もう少しだけ待ってください(笑)。
自分でも最初は、今回の話とコスプレを結びつけるつもりはありませんでした。
ただ、この2作品について考えているうちに、ふと思ったんです。
「じゃあ、自分はなぜコスプレを撮っているんだろう」
「なぜコスメディアをやっているんだろう」
もちろん、楽しいからです。
コスプレが好きだから。
写真が好きだから。
アニメや漫画、ゲームが好きだから。
いろいろな人に会えるから。
面白いイベントに行けるから。
理由はいくらでもあります。

でも、それだけではないのかもしれない。
もっと根っこの部分に、
「自分が出会った人や文化を、記録しておきたい」
という気持ちがあるのかもしれない。
今回、この2作品について考えたことで、そんなことに気づきました。


コスプレは「その瞬間」にしか存在しないものでもある

考えてみれば、コスプレという文化は、とても「時間」と深く結びついていると思います。

衣装を作る。
ウィッグをセットする。
メイクをする。
キャラクターについて考える。
撮影場所を探す。
コスプレイヤー、カメラマンと相談する。
イベントに参加する。
そして、一日撮影する。
そのために何週間、何か月も準備することだってあります。
でも、その瞬間そのものは、本当に短い。
イベントなら一日。
撮影なら数時間。
終われば、衣装を脱いで、メイクを落として、日常に戻ります。
その日、その場所、そのメンバーでしか生まれなかったものは、もう二度と完全に同じ形では再現できません。
同じ衣装を着ても。
同じスタジオに行っても。
同じカメラマンが撮っても。
そのときとまったく同じ写真は撮れない。
人も変わります。
好きな作品も変わります。
活動の仕方も変わります。
コスプレを始める人もいれば、辞める人もいます。
イベントも変わります。
スタジオも、永遠にあるわけではありません。
作品の流行も移り変わっていきます。
今、多くの人がコスプレしている作品も、10年後には「懐かしい作品」と呼ばれているかもしれません。
そう考えると、コスプレはとても儚い文化でもあります。
でも、だからこそ「記録する」ということに意味があるのだと思います。


写真は「この人が、この瞬間にいた」という記録になる

自分はカメラマンとして、これまでたくさんのコスプレイヤーさんを撮影してきました。
撮影しているときは、
「どうすればもっとキャラクターらしく見えるか」
「この構図のほうが格好いいかな」
「この光のほうが作品の雰囲気に合うかな」
そんなことを考えています。
でも、何年か経って昔の写真を見返すと、写真の意味が少し変わって見えることがあります。
その写真は、ただ「キャラクターを再現した写真」ではなくなるんです。
「あの日、この場所で、この人たちと撮影した」
という記憶になります。
撮影の途中でこんな話をした。
こんなことで笑った。
ものすごく暑かった。
ものすごく寒かった。
機材トラブルがあった。
帰りにご飯を食べた。
そんな、写真には直接写っていない記憶まで一緒によみがえってくる。
写真というものは不思議です。
一瞬を切り取っただけなのに、その一枚の周りにあった何時間もの記憶まで残してくれる。
そう考えると、自分が撮っているのは、単に「コスプレ写真」だけではないのかもしれません。

「その人が、その時、その場所にいた」

という記録でもある。
そんなふうに思います。


コスメディアで残したいもの

そして、それはコスメディアにもつながっています。
コスメディアでは、コスプレイヤーさんを紹介したり、イベントを取材したり、スタジオを紹介したり、コスプレに関わるさまざまな人や文化を記事として残しています。
イベントに行けば、たくさんの人がいます。
コスプレイヤーさん。
カメラマン
イベントを運営する人。
スタジオを作る人。
企業としてコスプレ文化に関わる人。
作品を愛している人。

本当にたくさんの人たちがいて、その一人一人が今のコスプレ文化を作っています。
でも、そのすべてが永遠に続くわけではありません。
イベントが終了することもあります。
スタジオが閉店することもあります。
活動を終える人もいます。
SNSのサービスそのものが変わることだってあります。
数年前には当たり前だったものが、いつの間にかなくなっている。
そんなことは珍しくありません。
だからこそ、
「この人がいた」
「こんな作品を好きな人たちがいた」
「こんなコスプレがあった」
「こんなイベントがあった」
「こんなスタジオがあった」
「この時代には、こんな文化があった」
それを写真や文章として残しておきたい。
もしかすると、自分がコスメディアをやっている理由の一つは、そこにあるのかもしれません。


「紹介する」ということは、「記憶する」ということなのかもしれない

メディアというと、「情報を発信するもの」というイメージが強いと思います。
もちろん、コスメディアもそうです。
イベントの情報を伝える。
コスプレイヤーさんを紹介する。
スタジオを紹介する。
新しいサービスを紹介する。
でも、メディアにはもう一つ役割があると思っています。
「記録すること」です。
今日の記事は、今日読めば「最新情報」かもしれません。
でも、5年後、10年後に読めば、それは「記録」になります。
「あの頃は、こんなイベントがあったんだ」
「この作品が流行っていたんだ」
「こんな人たちが活動していたんだ」
「こんな場所でコスプレ撮影をしていたんだ」
今は当たり前に存在しているものも、時間が経てば歴史になります。
だから、自分は紹介したいのかもしれません。
そして、記録したいのかもしれません。
自分がコスプレを通じて出会った人たちを。
自分が見てきた景色を。
自分が面白いと思ったものを。
自分が好きだと思った文化を。
その人たちや、その文化が、
「確かにここにあった」
ということを。


自分がいなくなったあとに、何が残るんだろう

ここで、最初の問いに戻ります。
「自分がいなくなったら、何が残るんだろう」
正直、分かりません。
何十年後のことなんて分かりませんし、自分が書いた記事がどこまで残るのかも分かりません。
自分が撮った写真が、ずっと残る保証もありません。
コスメディアという名前が、どこまで続いていくのかも分かりません。
でも、それでいいのかもしれない。
何かのためでなくてもいい。
世界に大きなものを残せなくてもいい。
誰かと過ごした時間そのものに意味がある。
自分と出会った人の中に、自分がいた時間が少し残る。
そして、自分の中にも、これまで出会ってきた人たちが残っている。
撮影した人。
一緒にイベントへ行った人。
取材させてもらった人。
記事を読んでくれた人。
一緒に何かを作った人。
応援してくれた人。
時には意見が合わなかった人。
もう会わなくなった人。
そういう人たちとの時間が積み重なって、今の自分がいます。
そして、自分が写真を撮ったり、記事を書いたりすることで、
誰かの時間や、誰かの活動や、ある時代のコスプレ文化を少しでも残すことができたら。
それは、とても意味のあることなのかもしれません。


その記録のどこかに、自分も少しだけ存在していたらいい

『さよならの朝に約束の花をかざろう』。
『世界から猫が消えたなら』。
なぜ自分が、この2作品を人生でどちらか選べないほど好きなのか。
ずっと、よく分かっていませんでした。
「命」と「家族」を描いているから。
もちろん、それも理由の一つだと思います。
でも、今回改めて考えてみて、少しだけ分かった気がします。
この2作品は、自分の中にずっとあった問いに触れていたんです。
「自分は何のために生きているんだろう」
「今やっていることに意味はあるのか」
「自分がいなくなったら何が残るんだろう」
「大切な人がいなくなったら、自分に何が残るんだろう」
その問いに、きっと完璧な答えはありません。
これから先、考え方が変わることもあると思います。
でも、今の自分なら、こう思います。
何か大きなことを成し遂げるためじゃなくてもいい。
誰かと出会って、一緒に過ごした時間そのものに意味がある。
人は誰かの中に何かを残しながら生きていて、
自分自身もまた、これまで出会った人たちが残してくれたものの積み重ねでできている。
だから、自分はこれからも写真を撮りたい。
記事を書きたい。
コスプレを通じて出会った人たちを紹介したい。
イベントを取材したい。
スタジオを紹介したい。
その時代、その瞬間に存在するコスプレ文化を記録していきたい。
「この人がいた」
「こんな作品を愛している人がいた」
「こんな場所があった」
「こんなイベントがあった」
「こんな文化があった」
それを残しておきたい。
いつか誰かがその記録を見返したとき、
「ああ、こんな時代があったんだな」
と思ってもらえたら。
あるいは、写真を撮った本人が何年後かに見返して、
「あの頃、楽しかったな」
と思ってくれたら。
それだけでも十分なのかもしれません。
そして、そのたくさんの記録のどこかに、
写真を撮った人として。
記事を書いた人として。
コスメディアをやっていた人として。
自分という存在も、ほんの少しだけ残っていたらいい。
そんなことを思います。

人生が何のためにあるのか。
自分が生きることに、どんな意味があるのか。
今の自分には、まだ分かりません。
きっと、最後まで分からないのかもしれません。
でも。
誰かと出会えたこと。
誰かと同じ時間を過ごせたこと。
好きなものを好きだと言えたこと。
その瞬間を写真に残せたこと。
誰かのことを文章に残せたこと。
そして、自分が好きな文化の中で生きられたこと。
それらはきっと、無意味ではない。
だから、これからも。
自分が出会った人たちを。
自分が好きになったものを。
自分が生きているこの時代のコスプレ文化を。
できる限り、写真と文章で残していきたいと思います。

いつか失われてしまうものだからこそ。
「確かに、ここにあった」と言えるように。
そしていつか、自分自身の時間にも終わりが来たとき。
自分と関わってくれた誰かの記憶の片隅に、
「そういえば、あんな人がいたな」
と、ほんの少しでも残っていたら。
それはきっと、
自分がここに生きていたという、
十分すぎるくらいの証なのかもしれません。

最後に

今回は少し湿っぽい話になってしまい、申し訳ありません……!
ただ、自分がなぜこの2作品をここまで好きなのか、そしてなぜコスメディアを続けているのか。
改めて考えてみると、今まで自分でもうまく言葉にできなかった部分が、少しだけ見えたような気がします。
誰かと出会ったこと。
一緒に過ごしたこと。
写真を撮ったこと。
記事を書いたこと。
その一つ一つが、いつか誰かの記憶のどこかに残ってくれたら嬉しいです。

そして最後に告知です!
次回の取材は、**ワンダーフェスティバル2026[夏]**になります!
当日参加されるコスプレイヤーさん、造形・ディーラー関係の皆さん、そして会場でお会いできる皆さん。
お見かけした際には、ぜひ撮影・取材をさせていただけたら嬉しいです……!
会場でお会いできるのを楽しみにしています!
それでは、今回はこのあたりで。
また次のコラム記事でお会いしましょう!
さようなら!

投稿者プロフィール

赤鬼
赤鬼代表&カメラマン
webcosmedia代表&ライター
2018年にコスプレ撮影を開始。
関東を中心にコスプレイベントに参加。
使用機材:Nikon D780
DOD(ディーオーディー) ミッツ・ワケポーチ
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